モスクワ中心部、新アルバート通りの裏手には、閑静な高級住宅街が広がっています。そこには小さな劇場やカフェ、ブティックがあり、最高の散策地区となっています。
その一画にたたずむのが、作家、マクシム・ゴーリキーが実際に住んでいた家。現在は「ゴーリキーの家博物館」として一般公開されています。
マクシム・ゴーリキー(1868-1936)とは、「どん底」(1902)という戯曲や「母」(1907)という小説で知られる、ソ連初期を代表する作家で、ソ連の文化イデオロギー「社会主義リアリズム」を最初に実践した作家でした。
この博物館は、ゴーリキーが住んでいた家なのですが、最初はフョードル・シェフテリの設計によって、1902年に商人リャブシンスキーの邸宅として建てられました。
シュテフェリは、モスクワのヤロスラヴリ駅も手がけた「ロシア・アールヌーヴォー」の代表的建築家です。
その後1917年のロシア革命でリャブシンスキーは失脚し、邸宅を手放します。
当時、革命派だったゴーリキーも結核療養のためイタリアへ移住しますが、1932年にスターリンの許可を得て帰国し、この邸宅を与えられ、亡くなるまでの数年間を過ごしました。
外観は落ち着いたアールヌーヴォー様式建築。
正面から見える窓は、それぞれ形こそ違いますが、曲線を強調した窓で、非常に目をひきます。
その一画にたたずむのが、作家、マクシム・ゴーリキーが実際に住んでいた家。現在は「ゴーリキーの家博物館」として一般公開されています。
マクシム・ゴーリキー(1868-1936)とは、「どん底」(1902)という戯曲や「母」(1907)という小説で知られる、ソ連初期を代表する作家で、ソ連の文化イデオロギー「社会主義リアリズム」を最初に実践した作家でした。
この博物館は、ゴーリキーが住んでいた家なのですが、最初はフョードル・シェフテリの設計によって、1902年に商人リャブシンスキーの邸宅として建てられました。
シュテフェリは、モスクワのヤロスラヴリ駅も手がけた「ロシア・アールヌーヴォー」の代表的建築家です。
その後1917年のロシア革命でリャブシンスキーは失脚し、邸宅を手放します。
当時、革命派だったゴーリキーも結核療養のためイタリアへ移住しますが、1932年にスターリンの許可を得て帰国し、この邸宅を与えられ、亡くなるまでの数年間を過ごしました。
外観は落ち着いたアールヌーヴォー様式建築。
正面から見える窓は、それぞれ形こそ違いますが、曲線を強調した窓で、非常に目をひきます。
博物館の入口は裏手の庭にあります。
受付で名前を書いたら、中へ(入場料は無料です)。
メインエントランス |
まずはザ・アールヌーヴォーというべき、曲線美の艶やかなランプを頂く大理石の階段が目に入ります。
手すりの彫刻などあらゆるディテールが、やわらかなフォームで成っており、曲線の渦に巻き込まれそうな感じです。
アールヌーヴォー様式が顕著に現れた階段 |
ドアにも繊細な彫刻が施され、ドアの上にも美しいステンドグラスや曲線の見事な模様が描かれています。淡い色彩に心が癒されます。
美しい曲線が描かれたステンドグラス |
モザイクが美しいステンドグラス |
床にも曲線の入った模様 |
各部屋へ入ると、まず目に入るのが、それぞれ形の異なる、美しい曲線で模られた大きな窓です。
リビングルームは、アンティークな家具で統一された落ち着いた空間。
この部屋もアールヌーヴォーらしい楕円窓があります。
リビングルーム。大きな窓から入る陽ざしがやさしい |
そして、図書室 |
多くの本を所蔵していたゴーリキーですが、見所はリビングとは少し違ったフォームの窓と天井の彫刻。
そして正面玄関の裏を通って(現在この正面玄関から出入りはできません)、
中国を中心にしたアジアの陶器や小物などのコレクションと、ゴーリキーが使っていた机のある書斎へ。
書斎 |
この部屋の窓は、リビングの窓と少し似ていますが、 格子の入り方が少し違っています |
。
そしてゴーリキーの寝室。こちらはシンプルな大きな窓とアンティークなベッドです。
美しい窓を見ながら、階段を上って2階へ。
踊り場にあるD型にデザインされた柱も見事で、その上には龍の彫刻が施されています。
ゴーリキーの彫像 |
ゴーリキーが使っていた机とデスマスク |
この机は、ゴーリキーが亡くなる直前に使っていた小さな机。奥には彼のデスマスク。
このように、「ロシア・アールヌーヴォー建築」という点だけでも、見学の価値が十分にある博物館ですが、ここにゴーリキーが住んだ意味を考えてみましょう。
ゴーリキーは1932年にイタリアから帰国してここに居を構え、社会主義リアリズム作家として、そしてソビエト作家同盟の議長として活躍しました。
1936年に死去。
ゴーリキーの死因は不明で、スターリンによる毒殺説もささやかれています。
しかし、ゴーリキーの活躍に敬意を表して、死後、彼の出身地ニジニ・ノヴゴロド市はゴーリキー市と改名され(現在はニジニ・ノヴゴロドに戻りました)、邸宅近くにゴーリキーが設立した文学大学は、彼の死後ゴーリキー記念文学大学となり、現在に至るまで数多くの作家・ライターを世に送り出しています。
真相はわかりませんが、厳粛な雰囲気に包まれた1930年代のソ連に戻ってきたゴーリキーにとって、この邸宅は安らげる唯一の空間だったのかもしれません。
このようなバックグラウンドを考えながら見学すると、より一層印象も深くなると思います。
ロシア文学と建築に関心のある方は、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか?
開館:水~日11:00~17:30(月・火は休館)
入場料:無料(写真撮影は100ルーブル)
住所:Malaya Nikitskaya 6
ロシア・アールヌーボーソビエト文学。柔と豪の両極端が混在する博物館は感動です!
(マリー/モスクワオフィス)
(この記事はネットトラベルサービス東京のロシア情報ブログ“Privet”2011年5月13日の記事を転載したものです)
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